日本でゼロからのスタート
日本に帰るにあたって、仕事の整理を始めた。
長年の夢をかなえ、育ててきた自分のブランド。
こつこつを築き上げてきた自分のお店。
二十四時間仕事のことだけを考えていた。
仕事が楽しくて楽しくてしかたなかった。
自分がそれを手放すということは、皮膚をはがすような痛みだった。
日本に帰る前の一週間は食事がいっさい喉を通らなかった。
ご飯を食べたいと思わなかった。お腹がまったくすかないのである。
ストレスから、耳鳴りが始まった。
耳の奥に低いブーンという音が鳴り続けた。
上海の飛行場まで、数人の友達が見送りに来てくれた。
犬を二匹ゲージに入れ、みんなで最後の写真を撮った。
やせこけた頬に、落ちくぼんだ目の幽霊のような私が写っている。
犬たちがゲージの中で不安そうな目をこちらに向けた。
涙がこぼれそうになった。泣いてはいけない。
そう思って、私は友達に短い言葉を残し、さよならっと手を振ると、
振り返りもせず、上海を後にした。
灰色の空の上海は重く沈んで見えた。
日本に着くと、幼なじみの友達が車で迎えに来てくれていた。
犬たちをゲージから出して散歩させ、車に乗せた。
友達との明るい会話と、犬たちが元気なのが救いだった。
自宅に着いた。オカンが出迎えてくれた。
友達にお礼を言って見送り、家に入ろうとした。
すると、オカンが
「犬は家には入れないよ」
と言った。
室内犬のチワワである。外で飼うことはできない。
「じゃあ、私も入らない」
そう言うと、私は庭に行った。
犬を庭に放し、大きな石の上に腰をかけた。
ちょうど夕暮れで、空が薄暗くなり、いくつかの星が輝きだしていた。
「なにもかもなくなった」
そう思った。
長年かけて築いたものをすべて捨ててきた。
私に残ったのは犬二匹だけ。
ここに戻るために、この数ヶ月、どんなにつらい思いをしたか。
なのに、家には入れず、外に座っている。
空を見上げた。
星が輝いて、あたりはすっかり暗くなっていた。
すると、ふと、私のポケットから光が放っているのに気がついた。
ポケットをあけると、辺りがぱあっと明るく光った。
私は、そこにたくさんの宝石が入っているのを見つけた。
それは、「経験」という宝石、「友達」という宝石だった。
経験は私から誰も奪うことはできない。友達もそうだ。
ポケットの中は、私が三十年間蓄えてきた知識や経験がいっぱい詰まっていた。
すべて失ったけれど、決してゼロではない。
そう思ったとき、オカンが
「犬も一緒でいいから家に入りなさい」
と声をかけてきた。
犬たちがしっぽを振りながら寄ってきた。
私は、ポケットを閉じると、家に入った。
日本での生活がスタートした。